パソコンOSはこんなに変わった

パソコンという用語は日本で生まれた特有のもので、一般にはパーソナルコンピュータと言います。あとでも書きますが、この用語も世界最初に米国アップル社が使用したものです。またパソコンは日本の富士通が宣伝に使用したものです。世界では通じません。
当時は、まだ一般人には高価な品物でしたが徐々にマニアを中心に販売台数が増えて価格低下につながったのです。

1970年のことです。まだ世の中には大型コンピュータや中型コンピュータなどが業界を左右していてシェアの奪い合いをしていた頃、比較的安価なミニコンと呼ばれるデスクトップのものが開発され技術者たちの多くはミニコンに使用するアセンブリー言語なるものに明け暮れました。

そんな頃に、一人のアマチュア無線家が驚くべきヒントを見出し、集積回路の設計図を完成させました。2エリア静岡県出身の嶋正利さん(JA2BDZ)でした。県立静岡高校を出て東北大学の化学科に進まれたのですが当時は就職難であり比較的小さな日本ビジコン社に就職され電卓半導体部門に採用され技術を身につけられたようです。
そこの部署で開発した電卓の設計図を携えながら米国西海岸サンタクララ郡(あとでお話しするパロアルトも含まれる)シリコンバレーにあった中小企業であるインテル社に製造依頼をするために出向されたわけです。当時の日本の集積回路製造技術は高くなく製品の歩留まりは半分程度だったので米国へ依頼する会社が多かったのです。何とインテル社は少人数とはいえトランジスタの発明でノーベル物理学賞をとったショックレーさんの弟子たちが何人かいたのです。なかでも主任研究員であるホフさんは、嶋さんたちが日本から持参した設計図を見て「皆さんはすごいものを見せてくれた。これはコンピュータの新しい形になる」と言って驚いたようです。それもそのはず、この日本ビジコン社は事務用電卓に特化した高級電卓を作っていたのでした。分かりやすく言えばプログラム電卓の走りです。

そうして、嶋さんはこの設計図を元にして世界最初の小型のコンピュータチップを開発したのです。米国にある電気学会(IEEE)アイトリプルイーと読む。において1970年に連名で発表するときの愛称として名付けられたのが4004マイクロコンピュータという名称でした。最初の4は4ビットで動作するチップという意味です。
世界で初めてプログラムで動作する集積回路の誕生でした。インテル社はこの技術を日本のビジコンに共同で使用することを申し入れましたが、当時の日本ビジコン社は業績悪化でとてもその受け入れをすることすら困難であり、社長が特許権を放棄したのです。のちに日本ビジコン社は倒産しています。さあ、この特許を得たインテル社は翌年には4040という開発番号で製品化して販売します。ところが、大手メーカーなどでは注目さえず一部では東芝の湯沸かし器の制御に使用されたとの話もありました。

ところが、再びインテルに戻った嶋さんが開発に開発を重ねてようやく8ビットチップである8008や8080を成功させたのです。

この頃には、既にインテルの8080マイクロプロセッサを搭載したワンボードコンピューターと呼ばれるものやケースに入れられた米国MITS社のAltair8800も販売されていました。このコンピュータは私も自宅に動作品を現在も所有しています。機会があればJARL支部大会で展示します。この8080は小さいと言えども256種類のコマンドを持ったものでマイクロプロセッサと呼ばれて爆発的に広がりました。この8080を世界で最初に実用化したのは米国のハムです。当時はテレタイプと言われるキーボード付きの入出力機(テレタイプ社ASR-33)を無線機に接続する機器(I/O)アイオーと読む。に使用されました。米国のコンピュータ雑誌Byte創刊号に掲載されております。ここで登場したのが、当時は大学生だったビルゲーツさんです。米国ではこの頃キットで遊ぶコンピュータ少年と呼ばれる人たちが出現し彼もアルバイトとしてMITS社にAltair8800で動作する2KバイトのBASICプログラムを納品し小遣い稼ぎをしていたようです。開発当時にはマシン語(ニーモニック)でしか動作できなかったものが、この紙テープで供給されるプログラムでASR33から転送させると初めて通信が可能になり世界中で爆発的にヒットしました。
この紙テーププログラムが最初の基本ソフトであり後になってOSに発展するのです。当然ですが、どのコンピュータも電源を入れただけでは何の変化もありませんから、どうしても基本ソフトと呼ばれる紙テープで導入するか、16個と8個のスイッチで2進数データを入れる必要があったのです。
のちに嶋さんはインテル社からスピンアウトしたファジンさんが立ち上げたZiLOG社(ザイログと読む)で合流しZ80という機種を開発し販売します。このZ80でようやく大手メーカーも将来性に気づき始めまず米国IBM社が1981年にIBM-PCを発売するのです。またアマチュア無線家がここでも活躍しますが、日本の後藤富雄さん(JA2ETC)がこれとは以前に8080を使用した学習用ワンボードコンピュータをNECで開発します。ところがNECはこれをチャンスと捕えて東京秋葉原にビットインというマニア向けショップを出現させNECマイクロコンピュータクラブを立上げます。このせいで後藤さんは大変忙しかったそうです。この後藤さんが開発した8080ワンボード(TK-80)をもとにTK-80BSの発展型が日本で最初に販売されたNECのPC8000でした。当時はシャープのMZ80などもキットでありましたが手軽に使用できるNEC製が人気で会社などでは購入した個人もいたようです。私も当時のNECマイクロコンピュータクラブに登録し会報を購読していました。なんと後藤さんは三重県津市のご出身で河芸にある朝暘中学です。(ちょっと長くなったので続きはまた)